ロベルト・シューマン その3 [音楽]
こんにちは。
今日は「ロベルト・シューマン その2」で紹介した、ライプツィヒのシューマンの家(現 博物館)にある展示物を紹介します。
先ずはこの家で書かれた交響曲4番の直筆譜(初稿1841年)です。
この曲は1841年9月のクララの誕生日にプレゼントされたもので、その3ヶ月前から作曲されたとか。
(現在演奏されている交響曲4番はその10年後の1851年に完成した改訂版です)
1841年はシューマンにとって「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲1番「春」もこの年に完成しています。
この交響曲1番の初演(1841年3月)は、メンデルスゾーン指揮、ゲバントハウス・オーケストラによって行われ、その成功によってシューマンが作曲家として認められるようになりました。
そして
ピアノ協奏曲の楽譜(直筆譜)。
この部分は2楽章から3楽章への移行部です。
最初この曲は、1941年に単一楽章の「ピアノとオーケストラのファンタジー」として作曲されました。
しかし、のちに2,3楽章が付け加えられクララのピアノによって初演されています。
それから2つの年代もののピアノも展示されています。
ひとつはクララのいとこ、ヴィルヘルム・ヴィーク製のグランドピアノ。
彼はブルトナー社でピアノ製作を学んだ後、独立して工房を立ち上げています。
(1860年製)
もうひとつはクララのお父さん製のピアノです。 (1825年製)
クララのお父さんは、音楽教育家でクララの先生でもあったのですが、
同時にピアノ工場も設立しています。
彼はピアニストとして演奏旅行を続けるクララに同行していましたが、
その時にもこのピアノのセールスに励んでいた という話です。
当時のピアノの状態は現在に比べるとかなり悪かったようで、
演奏会場でのピアノが調律されていなかったり、
弾くと鍵盤がもどらなかったりすることは、
珍しい話ではなかったようです。
クララのお父さんがピアノ工場を設立した背景にはこうした事情もあったのでしょうか。
ロベルト・シューマンがこの家(現 博物館)に引っ越してきたのはクララと結婚した時ですが、結婚前に一人で住んでいた部屋もライプツィヒにありました。
その部屋の壁の様子も博物館に再現されています。
部屋の壁にはJ.S.バッハ、ベートーベン、それにラファエロの絵「マドンナ」が掛けられていました。
他にもルードヴィッヒ・シュンケ(シューマンに影響を与えた作曲家)やクララの肖像画も見えます。
シューマンはこの部屋で、バッハやベートーベンを眺めながら「音楽新報(Die Neue Zeitschrift fuer Musik)」の原稿を執筆したのでしょうか・・・。(笑)
ちなみに結婚前に住んでいた当時の建物は、19世紀末 老朽化を理由に建て直されたので現在は存在しません。
当時の建物 現在の建物
ロベルト・シューマン生誕200周年の今年は
コンサートのプログラムにも多くのシューマン作品が登場しています。
うちのオーケストラでも6月はじめ、マンフレット序曲、ピアノ協奏曲そして交響曲4番とすべてシューマンの曲が演奏されました。
以前の関連記事はコチラ ↓
メンデルスゾーン その4 大バッハの復興者
クララ・シューマン
クララ・シューマン その2
ロベルト・シューマン その1
ロベルト・シューマン その2
今日は「ロベルト・シューマン その2」で紹介した、ライプツィヒのシューマンの家(現 博物館)にある展示物を紹介します。
先ずはこの家で書かれた交響曲4番の直筆譜(初稿1841年)です。
この曲は1841年9月のクララの誕生日にプレゼントされたもので、その3ヶ月前から作曲されたとか。
(現在演奏されている交響曲4番はその10年後の1851年に完成した改訂版です)
1841年はシューマンにとって「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲1番「春」もこの年に完成しています。
この交響曲1番の初演(1841年3月)は、メンデルスゾーン指揮、ゲバントハウス・オーケストラによって行われ、その成功によってシューマンが作曲家として認められるようになりました。
そして
ピアノ協奏曲の楽譜(直筆譜)。
この部分は2楽章から3楽章への移行部です。
最初この曲は、1941年に単一楽章の「ピアノとオーケストラのファンタジー」として作曲されました。
しかし、のちに2,3楽章が付け加えられクララのピアノによって初演されています。
それから2つの年代もののピアノも展示されています。
ひとつはクララのいとこ、ヴィルヘルム・ヴィーク製のグランドピアノ。
彼はブルトナー社でピアノ製作を学んだ後、独立して工房を立ち上げています。
(1860年製)
もうひとつはクララのお父さん製のピアノです。 (1825年製)
クララのお父さんは、音楽教育家でクララの先生でもあったのですが、
同時にピアノ工場も設立しています。
彼はピアニストとして演奏旅行を続けるクララに同行していましたが、
その時にもこのピアノのセールスに励んでいた という話です。
当時のピアノの状態は現在に比べるとかなり悪かったようで、
演奏会場でのピアノが調律されていなかったり、
弾くと鍵盤がもどらなかったりすることは、
珍しい話ではなかったようです。
クララのお父さんがピアノ工場を設立した背景にはこうした事情もあったのでしょうか。
ロベルト・シューマンがこの家(現 博物館)に引っ越してきたのはクララと結婚した時ですが、結婚前に一人で住んでいた部屋もライプツィヒにありました。
その部屋の壁の様子も博物館に再現されています。
部屋の壁にはJ.S.バッハ、ベートーベン、それにラファエロの絵「マドンナ」が掛けられていました。
他にもルードヴィッヒ・シュンケ(シューマンに影響を与えた作曲家)やクララの肖像画も見えます。
シューマンはこの部屋で、バッハやベートーベンを眺めながら「音楽新報(Die Neue Zeitschrift fuer Musik)」の原稿を執筆したのでしょうか・・・。(笑)
ちなみに結婚前に住んでいた当時の建物は、19世紀末 老朽化を理由に建て直されたので現在は存在しません。
当時の建物 現在の建物
ロベルト・シューマン生誕200周年の今年は
コンサートのプログラムにも多くのシューマン作品が登場しています。
うちのオーケストラでも6月はじめ、マンフレット序曲、ピアノ協奏曲そして交響曲4番とすべてシューマンの曲が演奏されました。
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クララ・シューマン
クララ・シューマン その2
ロベルト・シューマン その1
ロベルト・シューマン その2
2010-07-01 09:06
nice!(7)
コメント(4)
ご無沙汰しています☆
シューマン本人の直筆の楽譜が残っているのですね^^
本人が触れたものや、書いた文字(音符)などを見ると
本当にこの土地にいた人なのだなーと
実際に見たら感慨深いものなのでしょうね☆
それにしても、
紙に書いたものでも、随分綺麗に残っているものなのですね☆
by ケロリ (2010-07-07 19:37)
ケロリ さま
お久しぶりです、元気ですか?
本人の直筆譜をみると、作曲しているところを想像したり、昔その人がここを歩いていたかもしれない とか考えちゃいますよ。(笑)
ドイツやオーストリアにはこのようなところがたくさんあり、「自分たちの音楽」と言う意識が強いと感じます。
by Tommy (2010-07-18 21:47)
先日のミニ・コンサート拝聴しました。
ロベルト・シューマン生誕200年について少し話されてましたが、私はシューマンについては学生時に子供の情景のトロイメライ/木管五重奏版を演奏をしたぐらいで、いくつかの有名曲の作曲者である事以外はよく知らなかったです。
何かシューマンについて知る書籍などないか調べたら、クララ・シューマン 愛の協奏曲 という映画DVDの存在を知りレンタルして観ました。
彼が生きていた時代背景や苦悩をなんとなく知りえた気がします。
by peter2oboke (2010-07-28 17:02)
peter2oboke さま
暑い中ミニ・コンサートに来て頂き有難うございました。
ブログを観て来て頂けるとはとても嬉しいです。
演奏後の座敷で、ジュース(或いはビール?)でも飲みながら話せたらもっと良かったのですが、残念です。
「クララ・シューマンの映画はもう観たか?」と友人達からよく訊かれますが、残念ながらまだ観ていません。
ロベルト・シューマンがどの様に描かれているのかちょっと興味がありますね。
by Tommy (2010-08-11 01:00)